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水神社の前で

「願い事を思い浮かべながら水神社の鳥居をくぐると……って、昔みんなやってたじゃない?」

下校中。信号の待ち時間を持て余したシイが、横断歩道の向こうにある鳥居を指さした。シイと同じ六高の制服を着た頭一つ背の低い女子は、幼なじみのマトイである。彼女たちは同じ保育園と小・中学校で育った白淵団地の住人同士であった。二人とも右の口元に小さなほくろがあって、まるで姉妹みたいと言われるたびに、マトイは少しくすぐったい気持ちになるのだった。

マトイは意味もなく背伸びをして、シイが指さす水神社の鳥居に目をやった。水神社は隅田川のほとりにある神社で、正式には隅田神社という。かつては浮島神社と呼ばれていたらしいが、この団地一帯では大人も子供も水神社で通っていた。学区の小学生に配られる夏休みのしおり(水辺が近いので気をつけるように釘を刺されるのだ)でもたいてい水神社と呼ばれているので、街区案内の掲示板を見た観光客から「隅田神社はどちらですか?」と聞かれても分からない、というのは定番の笑い話だった。

「あぁ、うちらが小学生の時ね。消しゴムに好きな人の名前書いたり、ハートの折り紙作ったり、好きな人の影を踏むなんてのもあったなー」

「そうそう。あと、誰かに見られたら効果なしっていう謎のゲーム性ね。水に関する願いにこじつけなきゃいけないっていうルールもあったし」

「あー、あったあった! 今考えると、努力の方向性が間違ってて謎だよね」

「でも、神様に頼るしかない時ってあるのよ。私たちの大学受験みたいに……」

「いやいや、いきなり現実に戻ってこないでよ。で、突然そんな昔話始めてどうしたの? 鳥居なんて毎日通ってるじゃん」

白淵団地は、住宅地と隅田川を遮るように南北に延びた1.2kmほどの長大な団地であり、リューゲン島のリゾート地を思わせるような壮大さを持ち合わせている。ベランダや棟の隙間を埋めるように設置された防火シャッターは、古い住宅密集地で関東大震災級の火災が起きた際に、身を張った防火壁として機能させるための装備であった。高層団地はとかく燃えにくい構造物と考えられていたのだ。

もちろん水神社は団地の建設より昔から本殿と参道を敷く由緒正しい神社だったので、水神様の通り道を遮らないように設計するのは建設当時の絶対条件だった。火災から人々を守るためには、神様の力を借りる必要があったからだ。そのおかげで作られたのが、こうして横断歩道と鳥居と団地がまっすぐ並んだ特異な風景である。この鳥居を抜けると、6号棟と7号棟の間を通り抜けて川沿いの水神社にたどり着くことができるというわけだ。

「昨日ね、鳥居に向かって必死に祈ってる小学生の子を見たのよ。それでいろいろ思い出しちゃって」

「へー。あの文化ってまだ残ってるんだ。みんな卒業してくのに、鳥居のおまじないだけ残ってるのってなんか不思議だね」

「こういう素敵な文化も、もう水神社と一緒に消えちゃうのかしら」

シイの言うとおり、水神社は今まさに合祀の危機にあった。宮司が詐欺に巻き込まれ、参道部分の土地が不正に乗っ取られたのだ。不正な所有権移転登記が何度か繰り返され、善意の第三者に売却されてしまったというところまでが先月のニュース。水神社自身にはその土地を買い戻す資力は既になく、最終的に住民を巻き込んだトラブルを避けるために団地管理組合が共同で買い取ることになった。

この土地を水神様へ奉納して参道のまま残すべきか、購入費用に見合った価値を回収するために周囲の敷地と合わせて活用するべきか、来週の住民投票で水神社の将来が決まることになっていた。万が一、このような経緯の末に水神社が参道を失うとすれば、もはや白淵の地で集められる信仰はない。本殿もろとも遅かれ早かれここを去ることになるだろう。ここまで全て最初の詐欺師の筋書き通りとも言われているが、今さら真相が分かったところで状況は変えるにはもう遅い。

「マトイは水神様にどんなお願いしてたか覚えてる? 昔、一緒にこの鳥居をくぐってお願いごとしたわよね」

「そうだっけ? あー、もしかして、中学1年生の夏休みに突然呼び出されたやつ? ちょっと覚えてるかも。でも、どんな願いごとだったっけ……」

「私はね、あの日のことちゃんと覚えてる。だって、願いごとで人を殺したんだもの。忘れるわけないわ」

「……えっ、急にどうしたの? 人を殺した? 願いごとで? 変な冗談やめてよ。怖いじゃん」

マトイがへらへら笑いながらそう言い終わると同時に信号が青になったが、シイの足はぴくりとも動かない。シイが真面目な顔でこういう趣味の悪い冗談を言う性格ではないことは、マトイが一番よく分かっていた。暗い雰囲気に口を挟んで茶化そうとするのはマトイのいいところだったが、今は止まったままのシイを待つしかない。彼女がいう「殺した」人に心当たりがあったからだ。

「冗談なんて言ってないわよ。私のお父さんは、お願いを聞いてくれた水神様に殺されたの」

シイの言葉を聞いて、やはり、とマトイは思った。

シイの父親はひどいアルコール依存症だった。外面がよく誰にも疑われない父親と、外面を気にして誰にも相談できない母親に挟まれた最悪の環境で、一人娘のシイが安心できる場所はマトイと過ごす水神社の境内だけだった。質の悪い安酒を大量に飲んでは、家族に暴力を振るう悲惨な日々の繰り返し。最終的には無理な暴飲から意識朦朧に陥り、とうとう自分の吐瀉物を喉に詰まらせて窒息死したという話は、火葬の後に水神社の裏でマトイがシイから直接聞いたものだ。団地にいられなくなるから絶対内緒ね、というシイの言葉をマトイはしっかりと守っていた。

そしてこの父親はまた、自分の娘にひどい性的虐待を加えていたのだった。夫に逆らえない母親がシイの味方になるわけもなく、泣き叫ぶシイの口を塞いで無理矢理のしかかるその歪な光景から目をそらすのが精一杯だった。この時、シイは小学5年生である。血の繋がった幼い娘に欲情して性交を迫るなど、その姿は想像するもおぞましい。それは子を守るべき父親の皮を被ったただの怪物であった。願いを聞き入れた水神様が水に包んで殺したのだ、というのも解釈として正しいのだろう。

シイは心の奥底に封印して忘れたその凄惨な体験を誰にも話したことはなかったが、マトイにはおおよそ彼女に起きた事件の予測は付いていた。シイが父親について語る思い出はいつも欠落と矛盾だらけで、しかしあまりにできすぎていたからだ。それに、マトイはシイの部屋に来た かの 父親が自分に向けたねちっこい視線を今でもよく覚えていた。シイを呼びつけるあの声を思い出すと、得体の知れない恐怖で足がすくんでしまう。マトイが今でもシイの家で遊びたがらないのはそのせいだった。

「シイちゃん。水神様なんていないよ」

「何言ってるの。ちゃんといるわ」

「じゃあ、水神様は人を殺したりしないよ」

「きっと殺すわよ。そうじゃなきゃ、あんな卑劣なやつが簡単に死ぬわけない。マトイは私があいつを殺したとでも言いたいの?」

「……そんなわけ、ないじゃん。でも、おかしいよ。水神様がいなくなるかもって時に、なんでそんな話するの?」

信号はとっくに赤になっていた。

シイの口から「あいつ」なんて言葉が出たことに、マトイは動揺を隠せずにいた。シイは自分の父親を「お父さん」と呼び、遊園地や海に連れて行ったり、勉強を教えてくれるいい父親だったとマトイに語っていたからだ。そんなシイの父親が不運な事故で死んだというのは、シイ自身がマトイだけに伝えた秘密である。今さらシイが父親に対する殺意を告白するなんて、あの秘密は嘘だったと認めるなんて、マトイは夢にも思わなかったのだ。

「最近、あの男が夢に出てくるの。水神様がいなくなったら、あいつが生き返ってくるんじゃないかって」

震える声でそう呟いたシイは、足底から全身の力が抜けていく嫌な感覚と共に思わずその場にしゃがみ込んでしまった。ぶるぶる震える私の背中を見てマトイはきっと心配するだろう、と思ってがシイは顔を上げることすらできない。マトイの方も、過去を思い出しつつあるシイにどんな言葉をかけるべきか分からずにいた。

あぁ、シイちゃんが全部忘れたままでいたら。取り返しのつかない過去に向き合わずに済んだなら。シイの父親がどう苦しみながら死んだかなんて、本当はシイの手で殺されてるかもしれないなんて、彼女の痛々しい姿を見て涙ぐむマトイにとってはどうでもいいことだった。

「大丈夫だよ、シイちゃん。水神様は、水神社は、きっといなくならないから」

信号がまた青になる。マトイは一人で動けなくなったシイに肩を貸して、参道に続く横断歩道をどうにか渡り切った。シイの苦しそうな荒い呼吸はまだ治まりそうにない。マトイは鳥居をくぐりながら「シイちゃんが、全部ぜんぶ水に流せますように」と何度も祈っていた。

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